📋 目次
📖 この記事でわかること
- ✅ イラク戦争が起きた本当の理由がわかる
- ✅ 大量破壊兵器の嘘がどう作られたかがわかる
- ✅ 中東でテロが急増した根本原因がわかる
「中東」と聞いて、まず何を思い浮かべますか?
おそらく多くの人が「戦争」「テロ」という言葉を連想するでしょう。物心ついた頃から、ニュースでは中東の紛争やテロの話題が絶えませんでした。
しかし、ここで驚くべき事実があります。中東でテロが急増したのは、実はここ20年だけの話なのです。そして、その引き金となったのが2003年のイラク戦争でした。
アメリカはなぜ、存在しない大量破壊兵器を口実に戦争を仕掛けたのか。今回はその闇に迫ります。
中東のテロが急増したのは2003年以降だった
地域別のテロ件数を見ると、中東が圧倒的に多いことは事実です。2番目に多い南アジアのテロも、大半はパキスタンやアフガニスタンなど中東寄りの国のものです。
しかし、このデータで本当に注目すべきポイントがあります。
中東でテロが急増し始めたのは2003年頃。それ以前は他の地域と大差なかった。つまり、テロだらけの中東というイメージは、ここ20年で作られたものだった。
では2003年に何が起きたのか。それがアメリカによるイラク戦争です。大量破壊兵器を持っているという「嘘」を理由に始まったこの戦争は、60万人の民間人を犠牲にし、中東全体をテロの温床へと変えてしまいました。
アメリカはなぜ中東に深入りしたのか
実は1980年代まで、アメリカはあえて中東に関わらないようにしていました。宗教的な因縁が強いこの地域に深入りすると抜け出せなくなること、反米感情を刺激してしまうことを懸念していたからです。
アメリカの中東戦略はシンプルでした。
- イスラエル、サウジアラビア、イランと友好関係を維持
- 直接的な介入は極力避ける
- 3つの柱で地域の安定を図る
ところが1979年のイラン革命で、すべてが崩れました。
かつてアメリカの最も親米的な同盟国だったイランが、革命で一夜にして世界一の反米国家に変貌。アメリカは中東安定のための重要な柱を一つ失ったのです。
イランの代わりに選ばれたイラク・フセイン政権
アメリカがイランに代わる新たな同盟国として目をつけたのが、サダム・フセイン率いるイラクでした。
当時イランは、アラブ諸国の民衆に「自分たちのように革命を起こせ」と呼びかけていました。イラクの独裁者フセインはこれを目障りに感じ、イランの革命勢力を武力で倒そうと考えました。
- 1980年:フセインがイランに奇襲攻撃を仕掛ける
- 序盤はイラク優勢だったが、イラン国民が一致団結して反撃
- アメリカ、ソ連、アラブ諸国がこぞってイラクを支援
- それでも劣勢になったフセインは、国際法で禁止された毒ガスを使用
- アメリカは毒ガス使用を知りながら、その原材料を輸出していた
表向きはフセインの毒ガス使用を非難。しかし本音は「毒ガスを使ってでもイランを倒してほしい」というものだった。アメリカは建前と本音を完全に使い分けていた。
湾岸戦争:フセインの暴走とアメリカの計算
1988年、8年も続いたイラン・イラク戦争が終結。イラクは一応負けなかったものの、国内は荒廃し、GDPの2倍以上もの莫大な債務を抱えました。
しかも石油で外貨を稼ごうにも、原油価格が下落していました。フセインは隣国クウェートに不満を爆発させます。
- クウェートはイラクに戦費を貸していたが、戦後に借金返済を強硬に要求
- 原油価格の下落もクウェートの過剰生産が原因
- フセインは「クウェートが存在できるのは自分がイランと戦ったおかげ」と考えていた
- 戦争中に蓄積した世界第4位の軍事力を持っていた
1990年、フセインはクウェートに侵攻。小国クウェートはわずか6時間で全土を制圧・併合されました。
アメリカは強い危機感を抱きました。ここで見逃せば、フセインがサウジアラビアにも侵攻し、世界の石油を一手に握る可能性があったからです。
アメリカは34カ国からなる多国籍軍を編成。わずか1ヶ月でイラク軍をクウェートから追い出しました。
なぜアメリカはフセインを「あえて生かした」のか
湾岸戦争は大成功に見えましたが、アメリカ国内にはフセインの首を取れなかったことへの不満がありました。圧倒的優勢だったのだから、そのままイラクに侵攻してフセインを捕まえることもできたはずです。
しかし、アメリカにはフセインを生かす現実的な理由がありました。
イラクは「隣国を制圧できるほど強くはないが、イランにやられるほど弱くもない」という絶妙なバランスに落ち着きました。アメリカにとって、これ以上介入する理由がなくなったのです。
ただし、国連はフセインが再び攻撃的な行動に出ないよう、経済制裁と武器制限を課し、査察を行おうとしました。フセインは最初はしぶしぶ受け入れましたが、やがて査察を妨害・拒否するようになります。
ネオコンの台頭:「フセインを強制排除せよ」
査察を拒否するフセインに対し、アメリカやイギリスは空爆を行いましたが、フセインは武力で反撃。この小競り合いが何年も続きました。
この状況に業を煮やしたのが「ネオコン」(新保守主義者)と呼ばれる人々でした。
- ネオコンの主張:「ずるずると甘い対応を続けても問題は解決しない」
- 「大胆な武力攻撃でフセインを強制的に排除すべき」
- クリントン政権に「イラク解放法」を制定させた(外国の指導者を名指しで政権転覆することを明記した異例の法律)
- 2001年、ブッシュ大統領が当選し、ネオコンの閣僚が続々と採用された
ネオコンの閣僚たちは、政権発足時からイラクを攻撃することに関心を示していました。しかし現実には、北朝鮮の核開発、中国の台頭、プーチン新大統領との関係など、優先課題が山積。国連制裁ですっかり弱体化したイラクに労力をかける余裕はありませんでした。
ネオコンは、イラクを攻撃できる「機会」を待つしかなかったのです。
9.11同時多発テロ:ネオコンが待ち望んだ「機会」
2001年9月11日。ネオコンが待ち望んでいた機会は、最悪の形でやってきました。
CIAは衝突直後から犯人を確信していました。オサマ・ビンラディン率いるテロ組織アルカイダです。実はCIAは事件の1ヶ月前に、ビンラディンがアメリカを攻撃する準備をしているという情報をブッシュ大統領に報告していました。
事前の報告に対し、ブッシュ大統領は「なるほど、君はちゃんと責任を逃れたな」と言い、真面目に取り合わなかった。
しかし9.11が起きた直後、ネオコンがまず思い浮かべたのはビンラディンではなく、サダム・フセインでした。
テロからわずか5時間後、ネオコンのラムズフェルド国防長官はこんな指示を出していました。
ラムズフェルドは、燃え上がる世界貿易センターを見て「待ち望んでいたフセインを叩く機会がついにやってきた」と思ったのです。
犯人がビンラディンであり、フセインがおそらく無関係であることは知っていたでしょう。にもかかわらず、イラクに戦争を仕掛ける口実を得るために、フセインが事件に関わった証拠を何とかして見つけ出そうとしました。
「イラクをやらなきゃならない」——9.11当夜の衝撃的な会話
9月11日の夜、閣僚たちが集まった会議で、ラムズフェルドはこう言いました。
「9月11日の夜のことだ。ラムズフェルドがやってきて言った。『イラクをやらなきゃならない』と。私もパウエルも思わず彼の顔を見た。一体何を言っているんだという目で」
「そしてラムズフェルドは続けた。今でも忘れられない言葉だ。『アフガニスタンには十分な攻撃目標がない。我々が強い国であることを示すために、他の何かを爆撃する必要がある』と」
「その夜、私ははっきりとこう言った。『イラクは9.11とは何の関係もない』と。だがラムズフェルドはまるで聞いていなかった」
「最も驚くことではなかった。政権が始まった最初の数週間から、彼らはすでにイラクの話をしていたのだ。ただ私が耐えがたかったのは、ペンタゴンや世界貿易センターでまだ遺体が燃えているその時にまで、彼らがイラクの話をしていたという事実だ」
戦争の口実探し:証拠の捏造が始まった
ネオコンはまず「フセインが9.11に関わった証拠」を探しました。
9.11の実行犯モハメド・アッタが、事件の半年前にイラクの情報機関員とチェコのプラハで面会していたという情報がありました。しかし、監視カメラや通話記録、クレジットカードの履歴を調べた結果——
その日、アッタはアメリカのフロリダ州にいてプラハにはいなかった。9.11を戦争の口実に使うことはできなかった。
9.11を口実にできないと分かると、ネオコンは次の手として「大量破壊兵器」を使おうとしました。
アフガニスタン侵攻がほぼ終わった2001年11月27日、ラムズフェルド国防長官が米軍司令官と話し合った記録が残っています。
- 「戦争をどう始めるか」——つまり戦争の口実をどうするか検討
- イラクがクルド人を攻撃した際に人道的介入するか
- 9.11に関わった証拠を見つけた時か
- 国連の査察問題を利用するか
- フセインが査察を拒否するよう、あえて条件を厳しくすることも示唆
この文書には「情報工作」という手書きのメモがあった。国民が戦争を支持してくれないことを見越して、フセインの脅威を煽る世論操作をしようとした証拠だった。戦争を仕掛けることは「前提」であり、その理由付けをどうするかが議論されていた。
なぜ「大量破壊兵器」が選ばれたのか
ネオコンは「大量破壊兵器」という言葉を公の場で繰り返し使い、イラクがアメリカにとって差し迫った脅威であるというイメージを植え付けていきました。
実際、イラクはこの時点で国連の査察を受けておらず、大量破壊兵器を持っているかどうか確認できない状態にありました。この「不透明さ」こそが、ネオコンにとって最大の武器でした。
イラクは大量破壊兵器を持っていなかった。アメリカの情報機関もそれを示唆する情報を持っていた。
「持っていない証拠がない」=「持っている可能性がある」という論法で、脅威を煽り続けた。査察を受けていない不透明さを最大限利用した。
イラク戦争から学ぶべき3つの教訓
イラク戦争の経緯を振り返ると、国際政治の過酷な現実が浮かび上がります。
- 教訓①:大国は自国の利益のために、証拠の捏造すら厭わない
- 教訓②:戦争の「口実」と「本当の理由」はまったく別物であることが多い
- 教訓③:一度崩した地域の秩序は、何十年経っても元に戻らない(中東のテロ急増がその証拠)
アメリカは同盟国として重要な存在です。しかし、その同盟国が過去にどのような行動を取ってきたかを正確に知ることは、日本の外交を考える上でも極めて重要です。
イラク戦争は「ここ数十年で最大の国家規模の冤罪事件」でした。存在しない大量破壊兵器を口実に戦争を仕掛け、60万人の民間人が犠牲になり、中東全体がテロの温床と化しました。
この歴史を知っているかどうかで、今のニュースの見え方がまったく変わるはずです。
中東のニュースを見たとき「なぜこうなったのか?」を2003年まで遡って考えてみよう。
ニュースの「結果」だけでなく「原因」を知ることで、世界の見え方が一変します。
「中東ってテロばっかりってイメージあるじゃん?実はあれ、ここ20年だけの話なんだよ。2003年のイラク戦争の前は他の地域と大差なかった。しかもその戦争、アメリカが『イラクは大量破壊兵器を持ってる!』って言って始めたんだけど、後から調べたら最初から存在しなかったんだよね。つまり史上最大の冤罪事件。しかも9.11の当日の夜に、閣僚が『イラクをやらなきゃ』って言ってた記録まで残ってる。戦争って、始まる前からもう決まってたりするんだよな…」


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