📋 目次
- ▶ チャーチルが語った「新たな30年戦争」の意味
- ▶ ウィルソンの「勝利なき平和」はなぜ裏切られたのか
- ▶ ベルサイユ条約──ドイツ人の復讐心を生んだ過酷な懲罰
- ▶ ケインズの予言──「復讐はすぐにでもやってくる」
- ▶ ヒトラーはどこで生まれたか──「ベルサイユです」
- ▶ ムッソリーニは最初、ヒトラーの危険性に気づいていた
- ▶ オーストリア首相暗殺事件──ムッソリーニの警告
- ▶ イギリスの致命的な裏切り──対ドイツ包囲網の崩壊
- ▶ エチオピア侵攻──イギリスの裏切りが招いた連鎖
- ▶ イギリスの外交失敗が積み重なった構造
- ▶ 「倫理的責任」と「原因としての責任」は違う
- ▶ 歴史から学ぶ「外交の本質」
📖 この記事でわかること
- ✅ 第二次世界大戦が起きた本当の原因がわかる
- ✅ ベルサイユ条約がなぜ最悪の結果を招いたか理解できる
- ✅ イギリスの外交失敗がどのようにヒトラーを助けたかがわかる
「第二次世界大戦の責任はドイツにある」──これは誰もが知る常識です。しかし、当のイギリスやアメリカの中にも「自分たちの外交がもっとうまければ、あの戦争は避けられた」と主張する人々がいます。しかも、この主張は戦勝国側で一定の支持を集めているのです。一体イギリスは何に失敗したのでしょうか?今回は「イギリスの外交失敗」という異色の視点から、第二次世界大戦への道を振り返ります。
チャーチルが語った「新たな30年戦争」の意味
チャーチルは自身の第二次世界大戦回顧録を、こんな言葉で始めています。「私は本書を第一次世界大戦回顧録の続編と見なさざるを得ない」──つまり、第二次世界大戦は第一次世界大戦の続きだったということです。
より正確に言えば、第二次世界大戦とは第一次世界大戦の後始末の失敗が引き起こしたものでした。その「失敗」の核心にあったのが、ドイツ人の復讐心です。
ウィルソンの「勝利なき平和」はなぜ裏切られたのか
1918年、4年にわたる激戦の末、ドイツは降伏を受け入れる時を迎えました。アメリカのウィルソン大統領は「14か条の平和原則」を提案し、こう宣言していました。
これは「勝利なき講和」と呼ばれる理念でした。勝者が敗者を好き勝手に懲罰すれば恨みの連鎖が絶えない。だから講和はドイツの名誉を傷つけすぎず、公正に行うべきだ──。ドイツはこの理念に期待して講和を申し入れました。
ところが現実は違いました。
- ウィルソンは講和の条件として皇帝の退位を要求(自ら唱えた「ドイツの制度を変えない」と矛盾)
- イギリスとフランスは200万人の犠牲を出しており、「ドイツと平等の立場」を拒否
- 両国はドイツに対し武装解除・領土割譲・莫大な賠償金など徹底的な懲罰を要求
- ウィルソンも戦争を早く終わらせるため、自らの理想を妥協して英仏の要求を受け入れた
こうして「公正な平和」という理想は、講和会議が始まる前に捨てられてしまいました。
ベルサイユ条約──ドイツ人の復讐心を生んだ過酷な懲罰
ベルサイユ条約でドイツに課せられた条件は、苛烈なものでした。
- 海外植民地を全て没収
- 軍事を大幅に制限。戦車・航空機・潜水艦の保有は一切禁止
- ドイツは戦争の全責任を負い、莫大な賠償金を支払う
- 東西南北で総面積の13%に及ぶ領土を周辺国に割譲
- ドイツ人が住む地域も含まれ、離れ離れになったドイツ系住民が後の火種に
さらに戦勝国は、ドイツがこれを受け入れるまで港を封鎖し、食料輸入を完全に遮断する兵糧攻めに出ました。この封鎖によってドイツでは40万人以上の民間人が餓死しました。ドイツは頭に銃を突きつけられた状態で条約に署名したのです。
最後までドイツ領内では戦闘が行われませんでした。そのため多くのドイツ人は「まだ戦う力があったのに平和に応じてあげたのに、全責任を押し付けられ、40万人もの民間人を餓死させられた」と感じました。ベルサイユ条約は「脅されながら結ばされた不当な契約」であり、奪われたもの全てを取り返す権利がある──そう考えるドイツ人が大勢いたのです。
ケインズの予言──「復讐はすぐにでもやってくる」
一部の識者は最初からこの条約が災厄をもたらすと警告していました。その代表がマクロ経済学の権威ケインズです。ケインズはイギリス代表団として講和会議に出席し、ドイツへの賠償金が大きすぎると異議を唱えました。
後にケインズは「第二次世界大戦を予言した男」と呼ばれることになります。彼の警告は痛ましいほど正確に的中しました。
ヒトラーはどこで生まれたか──「ベルサイユです」
戦後のドイツでは賠償金を賄うために紙幣が大量に刷られ、ハイパーインフレが発生。人々の生活は壊滅的に悪化しました。せっかく稼いだ給料も税金として奪われ、その税金は自分たちのためではなく戦勝国への賠償金に充てられます。
このような状況で支持を集めたのがヒトラーでした。ヒトラーは1922年の時点で「200万人ものドイツ人が無駄死にしたということがあってはならない。復讐あるのみだ」と訴えていました。
ある人がイギリスの政治家ナンシー・アスターに「ヒトラーはどこ生まれですか?」と聞きました。するとアスターはこう答えました。
ヒトラーの出身地はオーストリアですが、彼を生み出したのはベルサイユ条約だった──この皮肉は的を射ていました。
ムッソリーニは最初、ヒトラーの危険性に気づいていた
一般的にムッソリーニはヒトラーの盟友という印象がありますが、元々ムッソリーニはヒトラーを嫌っていました。ヒトラーがサイン入り写真を送るよう懇願した際、ムッソリーニは手紙に「断る」と殴り書きして送り返したと言います。
1934年に初めて会談に応じたムッソリーニの感想は散々でした。
しかしムッソリーニは、そのピエロが恐ろしく危険な男であることにいち早く気づいていました。
オーストリア首相暗殺事件──ムッソリーニの警告
ヒトラーはオーストリア併合を公然と訴えていました。これはイタリアにとって深刻な問題です。オーストリアはイタリアとドイツを隔てる緩衝国であり、これがなくなれば安全保障上の大問題に発展するからです。
1934年、オーストリアのナチ党員150人が首相官邸を襲撃し、ドルフース首相を暗殺しました。ヒトラーが黒幕だったと言われています。
ムッソリーニは激怒し、すぐに陸軍をオーストリア国境に展開。「ドイツがこれ以上干渉するならイタリアは戦う用意がある」とヒトラーを牽制しました。当時のドイツにはまともな軍事力がなく、ヒトラーは慌てて関与を否定し引き下がりました。
「この殺人者と狂信者の国がヨーロッパを席巻すれば、ヨーロッパ文明は終わりを告げる。ヒトラーはドイツ人を武装させ、戦争を始めるだろう。おそらくこの2、3年のうちにも。私はたった一人でこれに立ち向かうわけにはいかない」──ムッソリーニはイギリスとフランスに共闘を訴えました。
イギリスの致命的な裏切り──対ドイツ包囲網の崩壊
ムッソリーニの訴えを受け、イギリスとフランスはある程度の理解を示しました。しかし同盟は結ぼうとしませんでした。「オーストリアの問題はイタリアだけが対応すればいい」と考えたのです。
1935年、ヒトラーが徴兵制を復活させ大幅な軍拡を表明すると、イギリスとフランスはようやくムッソリーニが正しかったと気づき始めました。3国は会議を開き、オーストリアの独立を支援し、ドイツがベルサイユ条約を破れば共同で反対することを確認し合いました。
ところが──ここでイギリスが致命的な行動に出ます。
会議の最中、イギリスはフランスとイタリアに秘密でドイツと個別交渉を行っていました。ドイツ海軍の規模をイギリス海軍の35%に留めるという取引です。大陸の問題に巻き込まれたくないイギリスは、「海軍が弱ければ島国の自分たちは安全」とこの提案に飛びつきました。
ムッソリーニは呆然としました。ついこの前まで「ベルサイユ条約違反を許さない」と言っていたイギリスが、たった1ヶ月後に自ら条約違反をドイツに許したのです。しかもイタリアとフランスには秘密で。
せっかく構築した対ドイツ包囲網は、あっけなく瓦解しました。
エチオピア侵攻──イギリスの裏切りが招いた連鎖
イギリスの裏切りは、ムッソリーニがエチオピア侵攻を決断した一因と言われています。
実はイタリアには40年前にエチオピア植民地化に失敗した過去があり、再び獲得すべきという意識がありました。しかしムッソリーニはそれまでこの野心を抑えていました。より重要な問題はドイツであり、イギリスやフランスと対立してまでエチオピアを取る価値はないと考えていたからです。
しかしイギリスに裏切られたムッソリーニは、もはやそのような配慮を捨ててしまいました。
イタリアを道徳的に批判し経済制裁を課したが、スエズ運河はイタリア海軍に開けっぱなし。中途半端な対応で、イタリアを止めることもできず、味方に引き留めることもできなかった。
イタリアにエチオピア東部の一部支配を認める妥協案でムッソリーニを味方に留め、対ドイツ包囲網を維持する。ムッソリーニ自身はこの妥協案に乗る意向だった。
イギリスは世論を意識してイタリアを批判する道を選びましたが、制裁は不徹底に終わり、結果としてイタリアを止めることも、味方に引き留めることも、どちらにも失敗しました。
イギリスの外交失敗が積み重なった構造
ここまでの流れを整理すると、イギリスの外交失敗は一度きりの判断ミスではなく、繰り返された裏切りと中途半端な対応の積み重ねだったことがわかります。
- 第一次大戦中:イタリアに領土を約束して参戦させたが、講和会議で約束を反故に
- ベルサイユ条約:ドイツに過酷すぎる懲罰を課し、復讐心の火種を残した
- 1935年:対ドイツ包囲網を確認した直後に、秘密裏にドイツと個別取引
- エチオピア問題:イタリアを批判するも制裁は中途半端。味方を敵に回した
こうしてヒトラーの最大の対抗勢力だったムッソリーニは、やがてヒトラーの盟友へと変わっていきます。ドイツは孤立するどころか、同盟国を得て勢力を拡大していきました。
「倫理的責任」と「原因としての責任」は違う
もちろん、第二次世界大戦の倫理的責任がドイツにあることは疑いようがありません。ヒトラーの侵略行為やホロコーストを正当化する余地は一切ありません。
しかし「なぜあの戦争が起きたのか」という原因の分析においては、イギリスの外交失敗が大きな役割を果たしたことは否定できません。
歴史から学ぶ「外交の本質」
この歴史が教えてくれるのは、外交において最も危険なのは「正しさ」に固執して現実を見失うことだということです。
- ドイツを懲らしめるのは「正しい」が、過酷すぎれば復讐心を生む
- イタリアのエチオピア侵攻を批判するのは「正しい」が、対ドイツ包囲網が崩壊すればもっと大きな災厄が来る
- 約束を守ることは「正しい」が、イギリスは何度も約束を破り、信頼を失った
道徳的に正しい選択が、必ずしも最善の結果をもたらすとは限らない。この教訓は、国際政治だけでなく、私たちの日常の人間関係にも通じるものがあります。
「相手を正しく罰すること」と「問題を本当に解決すること」は違う──今日、職場や人間関係で何か問題が起きた時、「正義の制裁」ではなく「未来の関係を良くする対応」を意識してみましょう。
「ムッソリーニって実は最初ヒトラーを大嫌いだったって知ってた?『猿みたいな男』『配管工みたいだ』って散々バカにしてたし、ヒトラーがオーストリアに手を出そうとした時は軍を国境に送って本気で止めたんだよ。でもイギリスがムッソリーニを何度も裏切ったせいで、結局ヒトラー側についちゃった。歴史って、味方を敵に回す外交ミスの連鎖で動いてるんだよね。」


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